栗園醫訓五十七則 解説(12)
一、脈を捨て証をとることあり。脈沈遅に柴胡、承気を用ゆるの類これなり。証を捨て脈をとることあり。頭痛発熱に麻附細辛、四逆を用ゆるの類これなり。取捨の間、即ち医の枢機なり。精苦分別すべし。
脈を捨て証をとる、証を捨て脈をとる。
切診で得られた(この場合は変化の激しい脈証)情報を捨て、大きく症候から重要な証を定めることもあるよと。
その逆に、症候から考えられる証を捨てて、緊急を要する脈状であればそれを再優先すると。
部分をとるのか、全体をとるのか、取捨選択の重要性を説く。
一、古人病を診するに、初一念と云ふことあり。是は常に病人を診するに、先ず其の容貌を見、未だ其の脈を診せざる先に、何とやらん初一念に叶はず形気あしく死相を具へたる病人あり。又初めて診するに、何ほど苦悩強き病人も形気初一念にあしきことなく、死相を具へざる者あり。此の二つの者は未だ脈を診せずといへども、其の善悪自然と初一念にうかぶなり。此の眼目を平生よくよく心懸くべし。
望診のことです。
あらたまった望診というより、患者さんをパッとみた時に、これは大丈夫だなとか、これはもしや何かあるかなとか、そういった直観を昔の名医は持っていたということですね。
望診を含めて、深い含蓄があるのが、和田東郭先生の医訓です。
古人之診病也望色不以目
聴聲不以耳夫唯不以耳目
故能察病應於大表矣
古人之診病也視彼不以彼
乃以彼爲我其既無彼我之分
是以能通病之情矣
用方簡者其術日精
用方繁者其術日粗
世毉動輙以簡爲粗以繁爲精
哀矣哉
古人の病を診するや、色を望むに目を以ってせず、
聲を聴くに耳を以ってせず、夫れ唯耳目を以ってせず、
故に能く病応を大表に察す。
古人の病を診するや、彼を視るに彼を以ってせず、
乃ち彼を以って我と為す。其れ既に彼我の分なし、
是を以って能く病の情に通ずるなり。
方を用ゆること簡なる者は、其術、日に精し。
方を用ゆること繁なる者は、其術、日に粗し。
世医、ややもすれば、すなわち簡を以って粗となし、
繁を以って精と為す、哀しいかな。
すごい訓ですよね。私はこの訓が好きで、印刷して飾っています。
何百何十も薬方を使う人より、数十~百薬方くらいを縦横無尽に使えるような人のほうがその術は精であると。
昔、師匠にも同じことを言われた思い出がありますよ。
一、医の術は活物を向に引き受けてすることなるに、死物の規矩準縄を引きあててする事間違いのことなり。青洲の活物窮理と云ふこと、尤のことなり。『医範提綱』や『全体新論』を読みて医を論ずるものは夢中の談と云ふべし。
漢方は生きた人間を相手にして発達した医学です。
西洋医学との明らかな違いであり、特徴と思います。
華岡青州の名前が出てきていますね。
東洋医学は生きた患者さんを相手にした実践です。机上の空論なんかでいくら勉強しても出来ない。議論をしても意味が無い。
一、医家の一枚起請と云ふことあり。胸郭くつろがざれば心下はすかず、表解せざれば裏和せずと云ふ如き、肝要の手段を領得するを云ふなり。
一枚起請というのは、浄土宗の法然上人が遺言として書いた一枚起請文のことのようですね。
そういう一枚起請文のように集約された大事なものが医家にもあるよと。
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