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本間棗軒 内科秘録 巻一 醫學

souken.jpg本間棗軒(1804~1872)は日本の江戸時代から明治時代に活躍した医師。
その名は本間玄調、その号が本間棗軒です。
棗軒は、常陸国に代々続く医家、本間家の七代目にあたります。

17歳にして、漢方医・原南陽(1752~1820)に入門し漢方医 学を学ぶ。しかし間もなく原南陽は没しているので直接の教えを受けた期間は短いと思われます。

棗軒はその後、オランダ医学を杉田立卿(杉田玄白の息子。1787~1845)に学び、それから紀州の華岡青洲(1760~1835)に入門しました。華岡青洲は 1804年に世界で初めての全身麻酔による外科手術を成功させた外科医ですが、漢方医学にも多くの功績を残しています。

青州が考案した十味敗毒湯、中黄膏、紫雲膏は現在の日本でも広く一般に使用されてなじみのあるものです。棗軒は長崎でドイツ人医師シーボルトにも師事した記録があります。

棗軒は日本の古医方(漢方医学)から当時の最先端の西洋医学までを幅広く学んでおり、現代の我々の感覚に近いものを感じます。カテーテルで導尿して猪苓湯で治療したといった記録もみられます。

棗軒の著書に『瘍科秘録』 『続瘍科秘録』『内科秘録』が伝わっており、『内科秘録』巻一の冒頭に書かれた「醫學」をここに抜粋しておきます。(原文から起こしたものですが、不備もあると思いますのでご勘弁を。)

現代語に意訳したものはこちらから。

醫は任重く責深き業にてその術を得るときはよく人を活かしその功大なりとなす。もしその術を失うときはまたよく人を害してその罪深きとなす。天下万民の壽夭(長寿と夭折)実に一刀匕ノ(ひとさじの?)得失に係わるるなれば常に慎むべし。秀才多識にして至誠をつくすにあらざればその術を得る難し。黄帝岐伯神農のはしばらく捨て論ぜず。伝に古の聖人は朝廷に立たず、必ず醫卜の間に隠れるといい、また不為良相為良医(良き宰相となりたければすなわち良き医者となれ)といえり。
これによってみれば、醫は聖人賢者の行うところにして実に貴き業なり。世に賤業小技のように心得るは孟子に癰醫を侍人瘠環とひとつに賤しめ論語に巫醫とならび称しておきたるゆえ賤しき業のようになれり。醫もまた儒者に小人儒君子儒あるかごとく君子にして之を行うときは貴くなり小人にして之を行うときは賤しくなるなり。孟子に癰醫といい論語に巫醫といいたるは即ち小人の醫を指斥したるにて、醫道を軽ろんじめたるるにあらず。儒は天下国家をも治むべき大業なれども之を学びて直ちに政を執るあたわず。醫は小技なれどもよく学び得るときは立に活人済世の功を立てる極めて多し。然れば醫學は儒学にも劣らぬ業というべし。

本朝医道の分派多くあれどもその大體をいうときは古方学・後世学・西洋学・折衷学の四流にして各所長あり。この外にも自己の妄見をもって私説をたてる者あり。これは全く異端にして歯牙にかかるるに足らず。古方学の講ずべきところは汗吐下の三法を用ふる。湯茶を飲むと同様に覚え少しも難事には思わず。常に用いて奇効を収め世醫もこれがために皆大黄・甘遂・巴豆・瓜蔕・烏頭・軽粉等の毒薬を自在に用いるようになりたるは全く古方学の功というべし。しかれども僅かにその門に入りてその蘊奥を得ざる者はただ長沙氏(張仲景)の論と方とのみを固執しその外はいかほどの良薬にても採用せず、後世の書籍はすべて無益となして高閣に束ね妄りに攻撃の剤のみを用いて活きるべき者をも殺す者あり。これは古方学の弊なり。後世学の長じたるところは古方にて及ばぬところを色々と工夫し種々の薬品を試み新方を作り良術も多くなり薬製等もくわしくなりたるはこれ後世学の功なり。しかれどもその奥旨を得ざる者はとかく強陽滋陰というところへ眼を注いで自然と臆病になり大切の仲景方を捨て置き、いたずらに多味の薬方のみを好み、たとえ古方を用いるにもそのままは用いず、或いは合方或いは加減して用い疫などの胃実したるをも緩慢にして下すを失し見殺しにするは後世学の弊なり。西洋学の長じたるところは人身窮理なり。醫は内景(解剖)を詳らかにせざれば療治の出来ぬものと知るべし。故に漢土にても内景を本として泄をたてたり。人身を解剖する霊枢及び漢書王・伝などに見えたり。しかれどもその説疎漏にして誤り多し。山脇東洋は具眼の人ゆえに早くこれに気が付きはじめて解剖を試み臓志(蔵志)を著し、陰陽五行などの空理を看破り(みやぶり)たり。西洋学は解剖を常に試み内景を詳らかにし、その説確実にして空論を設けず療治の益になる多し。かつ遠方の国ゆえ和漢になき薬品をも取扱また製煉にくわしく奇薬も多し。他醫の手を束ねたるをも奇薬にて功をとるすくなからず。しかれどもその原書を読むはもっとも難くして淵源を究るあたわず。僅かに翻訳書を閲しあるいは耳学問のみにして謾に蘭家と称し蛮語をもって人を惑わし遠薬をもって利を貪る者あり。これは西洋学より起こりたる弊なり。今諸流の弊を去り諸流の所長を取りて一流をなすを折衷学という。自己の一派を固く守り他流の事は所長をも唾棄するに至っては療治に臨んで人事を盡くすと言うべからず。

折衷学は本方先哲の徃徃唱えるところにて先師華岡青洲・原南陽、二先生の述べるところもすなわちこれなり。予も二先生を祖述し勤めて古籍を読みひろく衆方を採り古方後世西洋などに出入りしその論の得失を折衷しその方の能否を取捨し実用を専一として一派の・・に拘泥せず療治に臨んでは一地球を一大国と定め凡そ五大州中に出るところの有能の薬物はもちろん方術論説にいたるまで選用し日に試み月に験み一に活人に帰するのみ。長沙氏の行うところまたこの意に過ぎず。傷寒論の自序勤求古訓博採衆方選用素問九巻八十一難経陰陽大論胎・・薬録平脈弁証傷寒雑病論合十六巻といえり。勤求博採選用の六字を玩味するにすなわち折衷学なり。われ折衷学の大旨は第一に活物についてその理を講究し薬方のごときは海外に得るといえどもあるいはその薬味を増減しあるいはその服法を節略し一轉して別にその奇効を得るときは即ち神州の医道にして異域の物にあらず。私に意うに我が国の道統名礼楽制度衣冠器械及兵器等にいたるまで漢土西洋にもとづくといえども或いはその法を節略しあるいはその製を改正して別に便宜利用を得る。逈に(はるかに)異邦の上に出て大成したるは即ちこれ神州の國體なり。いま予が主張するところの醫術も國體にならうのみ。

醫學はまず儒学より始むべし。古医経は儒学の力にあらざれば読み難き者なり。しかれども儒学に入りてかえって素志を変じ己の力才の長短を顧みず、容易に儒者に成られるように思いついに醫學を廃しおうおうとして読書のみに歳月を送り一書生にて身を終わる者すくなからず、笑うべきなり。儒学に入りて醫學を忘れず醫學に入りて儒学を廃せざるを緊要とす。世に目一丁字を識らず(字をしらないで)常に口給を努め奔走周旋して病家の意に阿順し薬剤を用ゆるも病人の好惡に従いてその効能を論ぜず唯名利を求むる者はいわゆる小人醫にして大人君子のために辱めらるる者なり。
素問霊枢及び難經等は数種の註解を読みその大意を知りて解すを須ひず(もちいず)若し隻字一句の義理をも明覈せんと欲するときは惟日たらずたとえ講究するも勞して無益のみ。傷寒雑病論はけだし唐虞(とうぐ)三代の遺訓にして実に方法の鼻祖なり。古今の医家この書に本づかざる者なし。故に熟読玩味してその蘊奥を窮むべし。その法まず熟読する数百遍にして全編を暗誦するに至り宜しくその脈証を類鈔すべし。譬ば(たとえば)全編発熱の二字を鈔して一類となし、また全編浮脈の二字を鈔して一類となし、一証一脈を遺さずことごとく鈔録し前後を対照参考して発熱に虚實の二証あるを知り、脈浮に表裏の二候あるを弁ずるの類なり。他の脈証もまた之に準ず。かつ古今和漢の註解を読みてその原旨を得るを要務とす。隋唐以降の医籍に至りてはひとたび渉猟しその肯綮(こうけい)を取りて可なり。

天初めて人を生かするときは人従って飲食を製し身体を栄養し身体に疾疢を療するは自然にしてけだし造物主の教えるところなり。しかれば醫藥は上古生民とともに始まりたる炳然(へいぜん)として明らかなり。書に薬弗瞑眩厥病弗療といい、易に勿薬有喜といい礼に醫不三世不服其薬といい、論語に庚子貴薬丘未達不敢嘗といい、また漢書芸文志に醫藥の書若干部を載せたるにて考ふるに上古よりの遺方唐虞三代を経て秦漢に伝わりたる辨を待たずして知るべし。傷寒論に載するところの方はけだし上古の遺方にして仲景氏創立の方にあらず。故に自序に博採衆方といえり。また皇甫謐(こうほひつ)仲景氏を評し仲景垂妙於定方といって立方といわず、古方は即ち造物主の自然に人を教えて作らしめたる方なり。今試用するに立に神功奇験を奏し人人尊崇して二千年来地に堕ちずこの後とても天地とともに朽ちざる。推して知るべし。世に舶載の珍薬と唱へ家家の秘方と称する者ありといえども、一時の流行にしてもっぱら廃棄せらるるもののこれにあらず。また按ずるに大国にもっとも物を生じ小国はこれに次ぐ、自然の理なり。漢土は五大州中第一の大国にして儒において孔孟あり文章には斑馬あり書に・・あり・・には麟鳳龍虎あるの類、卓然として諸州に勝れたり。しかれば医道のごときも他邦に比するときは自ずから勝れる必然なり。予が用ふるところの方は仲景氏を以て本となし本邦及び海外諸州の方のごときはこれが輔佐となすのみ。
傷寒論に載するところの方は前文にも述べる通り上古の遺方なれば一味も漫に去加するときは古方の本旨を失うべし。後人越婢加朮湯へ茯苓を加え大柴胡湯へ芒硝を加ふるの類。倉卒に視るときは当然のようになれども古方の意を失せり。朮の一味にて足りたるところへ茯苓を加ふるときは朮の分量を減ずるゆえ朮にて功を取るに十分ならず。また利水の剤に麻黄と朮を組したる方は多く有れども麻黄と茯苓を併用したる方は無きように覚ゆ。茯苓は桂枝と合用するを定法となす。桂枝加苓朮湯・五苓散・八味地黄丸の類これなり。大柴胡湯は大黄の一味にて足れりとす。若し大黄芒硝を合用して功を取りたき場合ならば大承気湯を用いて可なり。今、越婢加朮湯へ茯苓を加え大柴胡湯へ芒硝を加えるは、たとえば鯛の切身を平種に献立のできたるところへ鴨を加ふるに同じうして杜撰の責を免れず。また兼用の剤を与ふる、たとえば黴瘡の病人へ搜風解毒湯を与え化毒丸を兼用とし鼠咬の病人へ五物解毒湯加千屈菜を投じ紫金錠を兼用とするは当然の事とす。今の醫風を観るに淨府湯に柴胡抑肝散を兼用とし柴胡桂姜湯に補中益気湯を兼用とする者あり。首鼠両端にして功を得る難かるべし。愚按するに仲景氏の法に合方は桂麻各半湯・柴胡桂枝湯の類にて有るなれども兼用の剤を用いるなし。

療治を学ぶの法はまず病人を多く診視するを第一の要務となすべし。無学の者でも療治に心を専らにするときは自然と療治手に入り世に名工と称せられて大家をなす者あり。いわんや学文の出来ての上に療治に志すときは扁倉和緩の跡も逐うべし。仮に酉の書を読み五車の文を講じ紙上にては疾病の陰陽虚実をつまびらかにし治法の補瀉温涼を明らかにするとも療治に不志者は病人に対し茫然としてなすところを知らず卒病急証に倉皇して措を失するのみ。殊に痘瘡などはまれに行わるる病ゆえ素人が見ても眼前痘瘡に相違なきものを初学の醫は決定するあたわず。傍らより気を付けられて大いに汚名を受るあり。されば初学の者は有名の国工にて疾病を多く取り扱う者を師となし其の門に就いて疾病を見覚える緊要なり。奇病異証は他門へも請うて聞見し遠方へも足を運んで病人を診し万病を遺さぬように心がけるべし。疾病を診視するにはまず利欲の念を断ち胸襟を清爽にし貧富を選ばず貴賎を分かたず惟膏肓にのみ意を注ぎ精神を入れて視るべし。まず脉を切し腹を按じその人の天凛を審らかにし病の原由を問い病の証候を尋ね色彩を望み形容を観て声音を聞き気臭を嗅ぎ平生習慣するところを審らかにしその上にて寒熱虚実浅深緩急常変等の諸候を知り内因外因内外兼因内外別因を明らかにし病名を定め方を処するときは回春の効なしはあるべからず。修行を遂け活人の手段を得るときは業の行わるるは必定なれども相手が素人ゆえに壮年の医者をば総て初心のように侮りて容易に療治を託せず、たとえ託するも速効なきときは乍ち(たちまち)休薬して醫を更ふる世の習なり。初心の者は謾に慍り自ずから畫り(はかり)て自然と懈怠して業を廃するに至るものあり。口惜しきなり。大業を志す者はこれらの小事にて素志を改むべからず。たとえ少しの病人にても数千人の疾病を關かりたるように心得、日に省診し孜孜(しし)として怠らざるを専要とす。この心を弛まずに長く通すときは後には必ず数千人の疾病を取扱い活人済世の功を立つるに足れり。江戸広小路などにて辻講釈をする者を視るに初めは聞くもの一人もなけれども向こうに数千人並びたるように視通して活眼になり汗を流し張扇にて机を打ち雄弁を振るうに往来の者漸漸に輻湊して遂に堵の如く講壇を圍む(囲む)に至るが如し。

本稿執筆にあたり、札幌市白石区の中村薬局、中村峰夫先生より資料をお借りいたしました。
中村先生には長年にわたりご協力をいただいております。心から感謝申し上げます。


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